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菊池寛を読んで

2019年も残り2ヶ月となったところで100年前の小説家にハマった。
100年以上前の小説家にハマること自体は自分にとって珍しくもないのだが、日本の小説家にハマることは珍しい。
安部公房以来だから……そうだな、実に10年ぶりになる。
自分はtwitterで紹介された作品を、小説に限らず漫画でも音楽でも映画でもなんでも、心の中の「あとで読む・見る・聴くリスト」にポイポイ放り込む。
何年もリストの中で埋まっている作品もあれば、気分などのタイミングが合ってすぐに引っ張りだされる作品もある。
今年は2つをすぐに引っ張り出した、1つは映画「ローマの休日」、もう1つは菊池寛の長編小説「真珠夫人」。
どちらも面白かったのだが、特に後者「真珠夫人」は尾を引いた。
古典に両足を突っ込んでいる作品だから、という期待値の低さも作用したのだろうが、これが今年の最初にして最大のヒットになってしまった。

ある作品を読んだあと、別の作品も読んでみたいと欲する作家がいる(いわゆる作家読み)。
自分にそういう欲求をもたらした作家は、ドストエフスキー安部公房ジョルジュ・シムノン、ピエール・ルメートルの4人だった。そしてこの度めでたく菊池寛が5人目になった。
菊池寛の作品を読み漁った今、ハマったきっかけとなった「真珠夫人」は個人的菊池寛作品ベスト3にはランクインしないという事態になっているのだが、裏を返せばつまり出会いが最高だった訳でもないにも関わらず、菊池寛に心を刺されてしまったということになる。
桜井和寿は何を歌っても桜井和寿になるように、菊池寛は何を書いても菊池寛、ということなのだろう。

では、自分が読んだ菊池寛作品(エッセイ等含む)を読んだ順に上げていこう。

真珠夫人
恩讐の彼方に
父帰る
無名作家の日記
出世
屋上の狂人
貞操問答
ある恋の話
船医の立場
芥川の事ども
納豆合戦
女強盗
藤十郎の恋
勝負事
志賀直哉氏の作品
極楽
身投げ救助業
吉良上野の立場
易と手相
奉行と人相学
三浦右衛門の最後

仇討禁止令
島原心中
入れ札
蘭学事始

青空文庫kindle版)で読んだせいか、短編がほとんどを占めているせいか、途中、作家本人ないし編集者によって並べられたとおりに読みたいという切なる気持ちが湧いてきて驚いた。

音楽であればプレイリスト全シャッフルをしたこともあるのだが、小説でシャッフル読みはしたことがない。
音楽シャッフルであっても、すでに順番どおりに何度も聴いた上での行為であり、いきなり全シャッフルなどしたことがなかった。
初読の短編群でシャッフル読みをしたおかげで、意図せず短編集の順番の重要性を実感できてしまった。

真珠夫人」から読み始め、「志賀直哉氏の作品」まで読み終わったところで自分の中の菊池寛像はかなり固まっていたのだが、次に読んだ「極楽」「身投げ救助業」のテイストがそれまでに築き上げた菊池寛像とは異なっていたのでかなり戸惑った。

現時点で、「極楽」、「身投げ救助業」、「形」の3作品が自分の中の菊池寛像と離れている。
もちろん、面白くないわけではない。面白さで言ったら他の作品と遜色ないどころか上位に来るのだが、自分が菊池寛に求めるもの、とはズレているというのが正直なところだ。
勝手な話なのだが、申し訳ない。

しかし、読む順番が違っていたらまた感想も違っていたかもしれない可能性に、「島原心中」を読み終わった後に気付いてしまった。
「極楽」の直後に「身投げ救助業」を読んでしまったせいで「極楽」のテイストに「身投げ救助業」の読感も引きずられていたのかもしれない。
では、「島原心中」を読んだ直後に「身投げ救助業」を読んでいたら?
そうであっても「身投げ救助業」が「極楽」系統の話であることは間違いないのだが、少しは“らしくなさ”が薄らいだかもしれない、と思わずにはいられなかった。

「身投げ救助業」、「島原心中」、そして「芥川の事ども」を読む限り、菊池寛は自殺を否定的には捉えていない。
(※もちろんこれは菊池寛という人間の思想、ではなく、菊池寛の書いた文章を読んだ自分がイメージした菊池寛の思想である)
死を望む者を救助する善意のありがた迷惑を描いた「身投げ救助業」、心中相手に手を貸すことを罪とする法に加担する“己”を恥じる「島原心中」、非難ではなくどこか諦めを漂わせている「芥川の事ども」、この3つの中に流れる自殺する者への視線は共通している。
しているのだが、ではなぜ身投げ救助業だけをらしくないと感じてしまうのだろう?

上のツイートにもあるとおり、菊池寛は“恥”を描くのが上手い。
「島原心中」でも「身投げ救助業」でも、正しい行いをしている、という考えがガラリと崩れる瞬間を描写している。
しかし「島原心中」の検事と「身投げ救助業」の老婆とでは決定的に異なる点があるのだ。
己の恥にたじろいだ後、たじろぎながらも折り合いをつける(検事)か、完膚なきまでに打ちのめされる(老婆)か。
「極楽」、「形」もそうなのだが、その瞬間が永遠に続く(もしくはその瞬間がその人物の最期となる)場合、読後感は苦いものとなる。
救いがない。
そういう話を好まないわけではないのだが、繰り返しになってしまうが、菊池寛にそれは求めていない。

菊池寛の登場人物たちの多くは、己の感情に盲目的ではない。
正しかったのか、正当性はあったのか、私情が混じっていないか、等々。
これは自分自身のことになるのだが、自分のこの怒りは正当なのか(逆恨みや嫉妬ではないのか)、愚痴(弱音や不満)が悪口(悦楽)になっていないか、賛意は当てつけではないのか、何/誰を意識してしまっているのか、等々考えているからこそ、そういった描写を好むのだろう。(考えているものの感情に押し流されることも少なくない。反省する。)

藤十郎の恋」と「ある恋の話」では、タイトルに反して恋の話は語られない。
役者が芸事のために恋を演ずる前者と、舞台上の役者に恋するだけで役者その人には全く興味のない後者は、2つでワンセットになっているといってもいい。
藤十郎は己の置かれた苦境から発生した激しい情欲を理性で以って制した上で冷徹に恋情溢れる男を演じ、若かりし祖母は舞台上の役者だけを愛していることに自覚的だ。
彼ら2人もまた、自身の感情に盲目的ではない。
盲目的であったならば、藤十郎は情欲のままに行動し、若かりし祖母は素の役者と舞台の上の役者とのギャップに苦悩し続けただろう。
藤十郎の恋」での藤十郎の凄まじさについては下記の記事で少し触れているので割愛しよう。

nn4al.hatenablog.com



菊池寛の小説はいくつか映像化されている。
しかしそれほど触手が動かない。
ドストエフスキー安部公房ジョルジュ・シムノンもピエール・ルメートルも、そしてモーリス・ルブランも、それぞれ独特の空気感を持っているのだが、彼らの小説の映像化には大なり小なり興味がある。
だが菊池寛作品ではそうならない。
と言いながら観る機会があれば観てしまうのだろうな。

最後に、現時点でのベスト3を上げておこう。※順不同

島原心中
入れ札
無名作家の日記