ナナシャルダンダン

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小説の読み方と映像化について

例えば7+5=12を頭の中でどう計算しているかだが、人によって異なるイメージを持っていたりする。
自分は7を「10に3足りない数」として捉えているため、

7+3+(-3+5)=10+2=12

文章に直すなら、"まず10を作るために5から3だけ吸収し、残った2を最後に加える"というイメージで計算している。(教育用語で言うさくらんぼ計算)
しかし人によっては、7を「5+2」と捉えた上で

5+5+2=10+2=12

と計算する人もいるだろうし、7だけではなく5も「10に5足りない数」として捉えた上で、

(10-3)+(10-5)=20-(3+5)=20-8=12

と計算している人だっているだろう、おそらく。
ごくごく単純な7+5=12でさえ、人によって計算方法、たどり着くまでのイメージが異なるのだ、それより遥かに複雑な小説に至っては、人の数だけイメージ方法、読書方法が存在して当たり前だと思う。
しかし他人の読み方に触れる機会はそれほどなく、触れたところでその読み方を自分も習得できる訳でもない。
ただ、「違う」ということを実感するだけなのだが、その違いに触れることはけっこう楽しい。

www.jigowatt121.com

小説を読むときに映像化させるか、については、敢えて映像化させることはないが、ごく稀に頭の中に映像が浮かぶことはある。
登場人物の台詞が誰かの声で再生されるか、に関しては、そんなことは滅多にない。
浮かぶものといえば、身体の一部(目だけ、口だけ、手だけ等々)だったり、感触のようなもの、概念だけ。
「この文章Aは線の太い漫画が合いそうだ」とか「この作品Bはヨーロッパのモノクロ映画の雰囲気がある」と思うことはあっても、実際にそれらで小説がビジュアライズされている訳ではなく、小説Aを読んだときに受ける感覚と線の太い漫画を読んだときに受ける感覚が似ている、作品Bを読んだときに受ける感覚とヨーロッパのモノクロ映画を見たときに受ける感覚が似ている、だからそれらが思い浮かぶ、というわけだ。
映像や音声が自然に再生される人や、映像化や音声化を意識的に行なう人からすれば、何も再生されない読書体験は無味乾燥じゃないのかと思ったり、怠惰だと思うかもしれないが、今のところ自身の読書体験に不満は特に持っていない。
他人の脳みそに入って全く別の読書を体験してみたい気持ちはあるけれど。

ツイート中にある「ベンチでの哄笑を映像で観てみたい」というのは、映像化されるならどう映像化されるのか興味があるという程度のもので、是非とも観たいというものではない。
しかし、このくだりを是非とも映像で見てみたい、と思うことがないわけでもない。
最近であれば菊池寛の『藤十郎の恋』、読み終えた瞬間に「映像化決定!」の文字が浮かんだくらいだ。(※すでに映像化されている)

その刹那である。藤十郎の心にある悪魔的な思付がムラムラと湧いて来た。それは恋ではなかった。それは烈しい慾情ではなかった。それは、恐ろしいほど冷めた理性の思付であった。(中略)
ただ恋に狂うている筈の、彼の瞳ばかりは、刃のように澄みきっていた。(中略)
 恐ろしい魔女が、その魅力の犠牲者を、見詰めるように、藤十郎は泣き俯したお梶を、じっと見詰めていた。彼の唇の辺には、凄まじい程の冷たい表情が浮かんでいた。が、それにも拘らず、声と動作とは、恋に狂うた男に適しい熱情を、持っている。

しかし「映像化決定!」の文字が脳内で踊っても、脳内で映像化を試みたりはしないのが自分という人間である。
朗読劇ならばまだ、「地の文を淡々と読み、台詞を感情的に読んでもらえば、この冷たい理性と演技の感情の対比が表現できるだろうか」などと考えられるのだが、映像となるともうお手上げである。
そしてまた、映像で観たいとは言っても、「藤十郎というキャラクターを観たい」ではなく、「藤十郎の凄みをメディアミックスでも感じたい」のである。
菊池寛の文章から受けたゾクゾクした感覚を、映像でも受け取りたい。この、この感覚をどうやって再現できるのか、手腕を、演出の至高を、観てみたい。
だから、藤十郎というキャラクターそのままである必要はなく、人種性別は変えてもらって構わないし、実写である必要もない。アニメでもいいし漫画でもいい。


映像化スキルは持たない人間だが、好きな小説を完璧に映像に移し変えた作品に出会ったことがある。
小説はドストエフスキーの『白痴』、移し変えた先は2003年に本国ロシアで製作された連続ドラマ(以下、ドラマ版)である。
ドラマ版の素晴らしさは数千文字程度では到底語り切れるものではないので、今回はたった数十秒のシーンでのみ語ろうと思う。

「ということはつまり、立ち上がっておいとますることになりますね」と、公爵は言って、自分の立場が厄介なことになっているにもかかわらず、かえって愉快そうにからからと笑いさえして、立ちあがった。(中略)
 その瞬間の公爵の眼差しはきわめてやさしく、その微笑にも、秘められた不快感など影さえも見られなかったので、将軍は思わず立ちどまって、急にこの客をなんとなくちがった見方でながめた。その見方の変化はほんの一瞬のうちに生まれたのであった。

新潮文庫木村浩

自分はドラマ版のこのシーンを観た後に小説の該当箇所(上記引用箇所)を読み直してみた。
衝撃的だった。
小説を読んで受けた感覚とドラマ版を観て受けた感覚がぴったり一致したからだ。

「ということはつまり、立ち上がっておいとますることになりますね」

この一言に置いて、ドラマの中の公爵は、ドストエフスキーの頭の中から直接生まれたような、正確にいうならば、ドストエフスキーの小説を読んだ自分の頭の中から直接生まれたような完璧さだった。
しかし、もし仮に自分が脳内で映像化をするタイプであったならば、ドラマ版のこのシーンを「完璧だ」と思ったかどうかは少し怪しい。
外見(衣装などを含む)を見るならば、ドラマ版はそれほど小説に忠実ではないからだ。(衣装の忠実さでいえばソ連版が上である)
何を以って「完璧だ」とするかは、その小説をどう読んでいるか、映像化して読んでいるのか、音声だけか、はたまた概念と感覚だけで読んでいるかによって異なるだろう。
受け取る感覚の一致率を重視している自分と、脳内で作り出した映像との一致率を重視している人では、メディアミックス作品に対する評価は異なるだろう。
その齟齬を、興味深い、と思うこともあれば、不可解だ、と感じることもあるのだが、しかしこれはもう別の話題が始まっている。新しいテーマになり得るだろうが、……この記事はこれで終わりである。