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黒澤明の白痴と原作の比較

先日、黒澤明の白痴をamazon primeで視聴した、観るのは2回目。
初見の時よりも原作の読み込み度が高いからか、単純に黒澤明作品の文法に慣れたのか、2回目の方が面白く感じた。
七人の侍羅生門(2回目)→白痴(2回目)という流れ。そしてそのあとに乱も観ている。
いやぁ、どれもこれも面白い。
黒澤明の名がいまだに名映画監督として轟きわたっている理由を思い知らされた。

出演者

羅生門に出ていた、三船敏郎森雅之志村喬、そして千秋実が白痴にも出演。
特に森雅之の役の振れ幅は大きかった。
金沢からの亀田。(実は羅生門の後に雨月物語も観ているから、金沢→源十郎→亀田なのだけど)
妻を軽蔑の眼差しで見つめた侍から、イノセントな白痴まで!
役者ってすごいな!
と、思う。
千秋実の香山もよかった。
三船敏郎赤間は原作よりも少し根っこの陽気さというか人の良さが滲み出ていた。
素晴らしかったのは那須妙子役の原節子と、綾子役の久我美子
(もしかすると映画単体の感想も書くかもしれないからここでは素晴らしかったとだけ言っておく)

映画について

黒澤明の白痴は1951年制作、本来は4時間半超えになるはずが、上からの命令により2時間半までカット。
その影響により、序盤は字幕が非常に多い。
後年の黒澤明ファンやドストエフスキーファンが完全版を観たいに違いない、と誰も考えてくれなかったらしく、完全版はどこにもない。
絶対プレミアつくのになぁ。
文字による説明が多いせいか、黒澤明作品の中では低い位置にあるらしい白痴、ドストエフスキーファンの贔屓目から見ても、「はたして原作未読者がこれを観て理解できるのだろうか」と思ってしまうのも確かである。
ただ、個人的に、アンジェイ・ワイダ版の悪霊よりは遥かに原作未読者に優しい作りになっているとは思う。
黒澤明が悪霊を撮ったらどういう作品に仕上げたのか興味あるなぁ、なんで白痴を選んだんだろう)
(※執筆者は白痴好き)

原作にはないエピソード・設定

黒澤明の白痴は、原作未読者には意外かもしれないけれど、驚くほど原作と同じ場面が多い。
原作にはないエピソードを羅列してみる。

  • 亀田(ムイシュキン)は戦犯として処刑されかけ癲癇性白痴となる。
  • 大野(エパンチン将軍)が亀田の土地を騙し取ろうとしている。

大きく異なるのは実はこの2つしかない。
この2つの変更ないし追加により芋づる式に変更・追加が起こっていく。
大野が亀田の土地を騙し取ろうとしているエピソードの追加により、夜会での大野の改心という一つのクライマックスが発生。
このエピソード自体はそれだけで終わるのだが、重要なのはもう一つ、亀田自身が処刑されかけた過去を持つ、というエピソード。
死刑直前に恩赦になった男のエピソード自体は原作にもあるものの(というかドストエフスキー自身の実体験である)、主人公ムイシュキンはそれを語るのみで、当事者ではない。
亀田は当事者かつそのせいで癲癇性白痴となって札幌に向かうが、ムイシュキンは非当事者かつ白痴が改善された状態でサンクトペテルブルクへと向かっていた。
「白痴」というタイトルに惑わされ、ムイシュキンは白痴である、と考えるのは大きな間違いで、ムイシュキンは空気が読めない正直者、という域を出ない。

ムイシュキンと亀田の比較

ここから設定の違いを比較していく。

ム:白痴状態でスイスの療養所へと送られそこで4年を過ごす。
亀:正常な状態から戦犯として死刑を宣告される。

ム:4年の間に白痴は改善される
亀:死刑直前、癲癇の発作を起こし白痴となる

ム:スイス時代、一人の不幸せな女性を救済する
亀:自分と同様死刑を宣告され、自分とは異なり死刑が執行された若い男の表情を見てしまう。(不幸せな男性を救済できなかった

ム:成功体験を得た状態でロシアに戻り、不幸せな女性を見つけてしまう。
亀:札幌の地で、若い男とそっくりの表情をした女性を見つけてしまう。

ム:ナスターシャ・フィリポヴナの名の日の祝い(翻訳によっては誕生日)の夜会において、愛を告白する
亀:那須妙子の誕生日の夜会において、妙子を憐れんでいると告白する


原作を何度も読み込んだ(らしい)黒澤明が、原作のムイシュキンと亀田のキャラクターの違いを理解していないはずがない。
理解していながら、ムイシュキンの陽の部分を、亀田では陰に置き換えている。
分かり易く、かつ最大の変更箇所は、白痴→正常を、正常→白痴、としている点。
亀田の「死刑直前で人違いだと判明し命拾いした」というエピソードは、原作者ドストエフスキーの「死刑直前に恩赦が出て命拾いした」というエピソードから来ている(と思う)。
原作では主人公ムイシュキンが、療養所で出会った男から聞いた話としてエパンチン家(大野家)で披露する話の一つだが、同じなのは「死刑直前まで行ったが助かった」という点のみ。

≪もし死なないとしたらどうだろう! もし命を取りとめたらどうだろう! それはなんという無限だろう! しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ! そうなったら、俺は一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんな物だってむだに費やしやしないだろうに!≫男の言うには、この想念がしまいには激しい憤懣の情に変って、もう一刻も早く銃殺してもらいたい気持ちになったそうですからねえ

新潮文庫「白痴」上巻より


このシーンは2003年ロシア製作の連続ドラマ版が白眉である。
が、まぁそれは今はどうでもいい。

ムイシュキンはスイス時代、不幸な女性を救うという成功体験を持った状態でロシアに帰ってくる。
原作終盤でラドムスキー(黒澤版未登場)に指摘されるように、ムイシュキンは祖国に理想を抱きながらロシアに帰国し、目の前に現れた不幸な女性に、飛びついてしまった。

「若いあなたは、スイスに住んで、祖国にあこがれていたのです。まだ見たことのない約束の聖地かなんぞのように、まっしぐらにロシアへ帰ってこられたのです。あなたはロシアに関する本を、たくさんお読みになりましたね。それらの本はすぐれたものだったかもしれませんが、あなたにとっては有害なものだったのです。いずれにしても、あなたは燃えるような実行欲をいだいて、われわれの前へあらわれると、いきなり実行に取りかかったのです! ところが、その日のうちに、あなたは悲しみにみちた、しかも胸をときめかすような、辱められた婦人の話を聞かされたのですね。聞き手はあなたという童貞の騎士、しかも話の主は女なのです、その日のうちに、あなたはその婦人に会って、その美しさに−−幻想的な、悪魔的な美しさに魅せられてしまったのです」

新潮文庫「白痴」下巻より


ムイシュキンはドン・キホーテだがアレクセイ・カラマーゾフドン・キホーテではない、と私は解釈しているのだが、亀田もドン・キホーテではない。
亀田が那須妙子に引き寄せられる理由は、頭の中だけの理想なんかではなかった。
死刑執行される若い男と同じ表情をしていたから引かれていた。
そして亀田は自身の感情を、恋愛だと勘違いもしなかった。ムイシュキンはしていた。
亀田はムイシュキンよりもはるかに純粋で真っ白だ。
ムイシュキンは浮かれもすれば、妬みもする。理想を胸に抱きもすれば、嫌になることもある。周囲と比較すれば純粋かもしれないが、それでも真っ白とは言い難い。

どちらが素晴らしいか

「真に美しい人」を描きたかったとドストエフスキーは書いている。
果たしてムイシュキンが真に美しい人だったか、白痴は成功しているか、私には判断しかねる。
しかし、黒澤明の白痴は、原作の主にムイシュキンの造形部分に起因するボヤッと感を、亀田に作り変えることでクリアにしてみせている。
私は原作もムイシュキンも好きだけれど、原作と映画どちらがはっきりと訴えて来るものがあるかと問われれば、映画のほうだと答えてしまう。
黒澤明の白痴は素晴らしい。
それはそれとしてドストエフスキーの白痴は大好きだ。

最後に

黒澤明という映画監督がドストエフスキーの白痴を映画化している事実に今更ながら感動し、森雅之三船敏郎原節子久我美子志村喬千秋実といった役者陣がそれぞれのキャラクターを演じたことへの驚きを抱きながら、同時に感謝も噛み締めている。
挑戦してくれてありがとうございます。
ひょっくり完全版が発見されないかな。

朝ドラエール第10話 元・帝役の子は良子ちゃんの取り巻きである

二日連続で朝ドラの感想を書くことになるとは思わなかった。
本日は第10話、引っ掛かりを覚える箇所もあれば面白い箇所もあり。
厳しい目線で視聴していればとことんマイナスになるような描写がないこともない。
ただ自分はなるべく半年観続けたいというスタンスで視聴しているためか、自然と見方が甘くなる。
甘くなっている自覚はある。
だから引っ掛かりを覚えた箇所は脳内保管で物語を作り出すか、理由を考え、ヤスリがけをしている。

さて、第10話の引っ掛かりを覚える箇所と言ったら、学芸会の役柄交換のシーンじゃないだろうか。
おじいさん2役の音ちゃんがかぐや姫に、かぐや姫役の良子ちゃんが帝に、帝役の子がおじいさん2に。
音ちゃんと良子ちゃんの役柄変更は本人たちの間で交換の要請需要があったから、いい。
問題は帝役からおじいさん2になった女の子の描写が一切なかったところだろう。
この元・帝役の子は「体調が悪いので医務室に行ってきます」と言って教室を去った良子ちゃんをすぐに追いかけた二人のうちの一人、背の低く顔に黒子のある女の子、だ。
しかも、「心配だから」という理由ではなく、「私も体調が悪いので医務室に行きます」と良子ちゃんと全く同じ理由をつけて。
元・帝役の子は良子ちゃんの友人というよりは良子ちゃんの取り巻きである。
取り巻きの子が良子ちゃんに頼まれれば即座に役を譲ったことは想像に難くない。
なんだったら、良子ちゃんかぐや姫を降りたことで自分も降りると言い出した可能性もある。
まぁ、実際にどうだったかは不明だから、帝役に未練があった可能性ももちろんあるだろう。
ただ、繰り返しになってしまうけれど、こちらはなるべく視聴を続けたい為に、マイナスになり得そうな描写はプラスの保管をすることにしている。
というわけで、3人の役交換に不和はなかったということに、自分の脳内では処理している。

それよりも、小学6年生の学芸会で伴奏もなしの完全独唱は難易度が高すぎるだろ…とは思った。

来週からはいよいよ本役。
引き続き視聴したいと思う。

朝ドラエール第9話 音ちゃんという子供

こんにちは。久しぶりに朝ドラを真面目に視聴しています。
今日は第9話の放送でした。
うーん。音ちゃん、快活で物怖じもあまりしない子供なんですよね。
ただ音ちゃんは他人の気持ちを汲める子ではない。
言いたいことを言う、「岩城も逃げるんだ!」「観に来てくれるだけいいじゃん!」
相手には相手の苦悩があることを音ちゃんは察さない。
それを言われた方が言い返せないことまで頭は回らない。(頭が回った上であれを言っているわけではないように見える。)
もちろん第9話でのこれらの言葉は父親が亡くなった悲しみの中発せられたものだから、相手の気持ちを慮れと言うのは10歳かそこらの子供には酷な話だと思います。
ただそれ以前も音ちゃんは、「みんなが音ちゃんみたいじゃないから」の言葉に象徴されるように、自分ができることは他人もできて当然、自分が楽しいことは他人も楽しんで当然、という見方をする子供だった。
その性格が父親の死によって、父親が死んだ子供という立場になったことで、言葉を受けた側への殺傷力が高くなっている、というのが今日のお話だったように思います。


今日まで観て、気になる箇所がないこともないです、例えば今日の「父親の死をクラスメイト全員の前で知らせる担任」とかは顕著ですね。
ただこれは全員が音の父親が亡くなったことを知っている前提を分かりやすく示すためのシーンなのだと思います。
10歳かそこらの子供の性格が多少あれだとしてもそれに対して不満を抱くことはないですねぇ…
最近は子供の描写に弱いので、いじめのシーン(どちらかというといじめっ子を演じている子役の子の心配)、健気なシーン、感情爆発のシーンなどなど、けっこう涙腺が緩みながらの視聴になっております。
(犬や猫がひどい目に遭うシーンがダメだという人の気持ちが分かりつつある昨今)

明日以降も視聴していきたいと思います。

堀口大學の誕生日

1月8日は堀口大學の誕生日らしい。
誕生日らしいから「今日のradiotalkは堀口先生を語ろうかな」などと思っていたのだが、堀口先生の文章を朗読することの難易度(朗読のみで堀口先生の文章を説明することの難易度)に気付いてしまったからブログにて語る。

堀口大學を語るなどと言っても、自分の中の堀口先生=アルセーヌ・ルパンシリーズの翻訳者、だ。
ボードレールなどは読んだことがない。
だから自然と今回語るのは堀口訳のアルセーヌ・ルパンシリーズについて、ということになる。
ルパン知らんよという人はごめんね。

堀口訳のルパンシリーズ、新潮文庫のルパンシリーズは、少し癖がある。
自分は好きだけれど、合わない人もいるだろうとは思っている。
「これはこれでアリだよね」という好きではなく、「2種類しか翻訳を残せないなら偕成社と新潮社を残す」と即答するくらい好き。
流石に偕成社は消せない、スタンダード…万人受けする翻訳…
堀口先生の翻訳しかなかったら、もうちょい癖を削ぎ落として下さいと苦言の一つも言いたくはなるけれど、偕成社シリーズという盤石の翻訳があるのは本当に大きい。

堀口先生の翻訳は癖がある。
だけどそれは堀口大學の癖というよりも原文の癖、フランス語の癖だ。
フランス語を日本語に移し替えるにあたり、スマートな日本語に寄せていない。
原文と翻訳を付き合わせた時、堀口訳はフランス語に寄っている印象を受ける。
日本語であれば句点であるべきところを読点としているのも、原文がピリオドではなくヴィルギュル(カンマ)だから。
一文が長々としているのも、原文の一文が長いから。
日本語としての語順が崩壊気味なのもフランス語の語順に寄せているから。
等々。
だから堀口訳は素晴らしいのだ、などと言うつもりは毛頭ない。
癖があることは事実だし、合わないという人がいるのもしょうがない。
自分は好きだから、どうしても擁護のスタンスに立ってしまう。
ハマれば文章のリズムを好きになる、一人称がなんだ、読みづらくなどない。
癖はあるよ、でも魅力的なんだ。
たまに原文と付き合わせてみると「この単語はどこから?」と思う箇所もあるよ、でも好きなんだ。
(だいたい、原文にない単語を一切持ってきていない翻訳なんてあるか?)

好きだけどxx、じゃないんだ、xxだけど好き、なんだ。
自分は好き、とても好き。

詩人なだけあって文章のリズムが本当に素敵。
真剣に、真心を込めて、好きだと言いたい。


あれ、待って、これ radiotalkでも全然イケたんじゃない?
おかしいな、当初の予定では堀口先生の翻訳をバリバリ引用するはずだったのに引用せずに終わったね。

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『おっさんずラブ-in the sky-』感想

※1は観ていないので比較などはしていません。
※かなり好意的な感想となっているので不満や批判を読みたい人向けにはなっていません。

千葉雄大が出るというので観てみることにした『おっさんずラブ-in the sky-』、前作の人気っぷりは把握していたものの自分は全くの未視聴状態。
第1−2話で、なるほどこんな感じなのか、と納得したからか、最終回の「そっち?!」展開も意外に結構すんなり受け入れてしまった。
まぁ確かに、たしかに、そっち?!とは思った。
でも、このドラマ、恋愛感情を抱く過程が雑じゃん?
雑というか過程の描写があったの、成瀬→四宮くらいじゃん?
春田→成瀬もかなり唐突だったよね、いつ好きになったの?と思ったよ。
他の矢印(四宮→春田、黒澤→春田、緋夏→春田)は開始時点で、自覚無自覚の差はあれど、すでに形成されていた。
自分は黒澤キャプテンが春田への気持ちに気付く下りで「恋愛感情を抱くに至る描写を挿入しない作品」だと見なした。
それに作品内でも何度か言及されていたように、「恋愛の好き」は厳密に規定されている訳ではない。
「お前の好きは恋愛感情ではない」と言われても、「そうかもしれないです。でも僕はあなたのことが好きです」と返したっていいんではないかな。
逆に、「あなたの好きは恋愛感情だ」と言われても、「そうではないと思います」と返してもいい。
他の好意とはっきりと区別できない好きを恋愛としての好きだと思う/思わないのはその感情の宿主の自由であって、他者がどうこう言うものではない。

と同時に、あの大団円のあと黒澤と春田の好きの齟齬が主に黒澤を苦しめるところまでは一瞬で想像できてしまった。
だけどそれは可能性の一つであって、紆余曲折を経てお互いが同じ好きを共有できるかもしれない。
それは誰にも分からない。
成瀬がこちらを向かないショックと黒澤キャプテンが引退するショックをごっちゃにしている可能性とか普通に頭に浮かんだし、タイミングが違っていれば春田が四宮の方へ行く可能性もあったな、とか思ったけれど、感情なんてタイミングに左右されることも多いし、あの最終回は自分はすんなり受け取れました。
好意的に受け止められたのは、先にも書いたとおり、恋愛感情を抱くに至る描写がふわっとしているという認識があったから(ここをしっかり描いている作品の最終回がこれだったら不満爆発する)、そしてもう一つ、こちらの方が理由としては大きいかもしれない。

この作品の世界が優しかったから。

月9シャーロックでも男性同士の恋人が出てきたのだが、そちらでは「(男同士)だからどうした?」という台詞が発せられる。 だけどこちらでは「だからどうした?」という台詞すら発せられない。
シャーロックの方の感想でも書いたとおり、自分は「だからどうした?」のいらない世界を欲している。
現実ではまだまだ遠いかもしれないけれど、フィクションの中でそれを描くことはできる。
例えばエレメンタリーなどは同性愛者が出てきても特にそれに対するリアクションはない、異性愛者と同程度にしか。
そしてそれは非常にホッとする。

四宮の気持ちを聞いた緋夏が「私たちライバルですね」と握手を求めたシーンで、自分の中で作品への好感度が爆上がりした。
「男なのに…」といった戸惑いや「ゲイなんですか」といった確認をこの作品はおそらく意図的に排していた。
リアルじゃないかもしれない。
でも、優しい世界を描いていたっていいじゃない。
緋夏ちゃんは、流石に父親もハルちゃんのことを好きだと告白された時はパニクっていたけれど、受け止めて受け入れていた。
「アタシたち3人、ハルちゃんにフラれた仲間じゃ〜ん」の明るさ。
(父親と春田が付き合い始めたと知ったらまた複雑な気持ちにはなるだろうけれど)

同性に告白された、同性を好きになってしまった、そういった苦悩を排し、周囲もそれを障害だとは受け止めない。
「緋夏ちゃんは女だからいいよな」もなければ「お父さんおかしいよ、ハルちゃんは男だよ?!」もない。
「俺、男ですけど…」もなければ「俺、男なのに…」もない。
人によってこれらはマイナスになるのかもしれないけれど、自分にはプラスだった。
好意的な目線で見ていたからこそ好意的に最終回を受け止められた。

自分は、好きです。


あとは吉田鋼太郎劇場な…。
面白かった…卓球とか相撲とか。
大河の撮影とも被っているからかいきなり時代劇口調になる吉田鋼太郎めっちゃ笑った…。
麒麟が来る』、観る予定です。
あ、そういえば千葉雄大目当てで観たのに千葉雄大に触れていない。
(目当てに触れないのは作品そのものを楽しめたってことですよ)

月9『シャーロック』総集編 感想

総集編のようで総集編ではなかったスペシャル。
やっぱり“悪の女性”の描写が古臭いなと思ったり、パワハラの件も大事だけど服役中の妻に会いに行きなさいよそういうとこだよ(妻の台詞から夫が面会に来ていないのは明らか)、とかツッコんだりしながらも、過去の事件の人々の「今」を描いていたのはよかったし、3年後しれっと何事もなかったかのように戻ってきた獅子雄と泣きそうな3人(特に江藤刑事)の対比にジーンときてしまった。
守谷とは、という謎には一切触れず(この時点で守谷はもう終わったことと認識している)(続編があるならまた登場するかもしれないが)守谷はただの舞台装置だ、という扱いは、最終回の感想でも書いたとおり、自分は好きです。
原作よりも存在が大きくなるキャラクターの1位と2位がモリアーティとアイリーン・アドラーだと思うのだが、終わってみれば月9シャーロックはどちらも大して大きな存在として扱わなかった(続編があるならまた変わるかもしれないが)
序盤の感想で、ホームズものとして観るのはやめた、というようなことを書いたけれど、振り返ってみれば、シャーロック・ホームズものだったな、に変遷している。
若宮くんいらないと思っていたけれど、若宮くんを好きになっている。
観続けてよかったと思う。
続編があるならまた視聴したい。
その時は女性描写が良くなっていることを願う。
好きだからって不満や欠点まで飲み込んだりはしない。
いや、好きだからこそ、かな。
批判に対して擁護したい部分もあれば、批判に同意する部分もある。
0か100かの必要はない。
満点でもあり零点でもある、そういう作品は少なくない。

同性同士の恋愛を「だからどうした」の一言すら必要ないほど当たり前のものとして描写してほしい、と書いた回がある。
今回、獅子雄と若宮ちゃんを恋人同士だと受け取ったハドソンさん(役名なんだっけ)に対する若宮ちゃんの反応が「そういうんじゃないですよ」や「違いますよ」の強い否定ではなくスルーだったのが非常に好ましかった。
ん〜、なんでだろうな。
あのシチュエーションが男女であれば、「こういう人には勝手に思わせとけ…」という一種の諦めが漂うというか。
BBC版の、男性同性愛を、散々ジョークや笑いのタネにし、誤解からの否定、否定されても誤解し続ける恋愛脳に辟易した記憶があるからなのだろうか。

男女の「違いますよ」と男同士/女同士の「違いますよ」は同じ否定でも、現状では内包する意味が異なってしまう。 「同性なんてありえない」という意味が。
それを笑いにするのは好きではないので、スルーの対応にホッとした。

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100分de名著『カラマーゾフの兄弟』

100分de名著『カラマーゾフの兄弟』全4回。
朗読というものにそれほど心を動かされたことがない人間なのだけど、津田寛治さんの朗読は上手かった。
いや、「上手い」と「心を動かされる」は等価ではないからこれでは言葉が適切ではないか。
津田寛治さんの朗読は上手くて、もっと聞いてみたい、あのシーンやこのシーンをどう朗読するのか聞いてみたい、という気持ちになった。
これは「心を動かされた」と同じだと思う。
イワンとスメルジャコフ、アリョーシャとイワン、ドミートリー、少年たちの雰囲気の違い。
できることなら悪魔とイワンのシーンも朗読してほしかった、一言も触れられずにスルーされてしまった…尺の都合…悲しい…

ドストエフスキーの作品は研究書も考察本も二次創作もたくさん存在する。
声/影響力の大小はあれど、一人一派としてドストエフスキー界隈を捉えることができている。
だからだろうか、亀山先生の解釈展開にも寛容でいられる。
(もちろん亀山先生と自分が全く別の解釈論を持っていると言いたい訳ではない。同じ/似た解釈を持っている箇所も少なくないし、亀山先生の解釈の影響を受けた箇所もある)
twitterでは『解釈違いの壁サー』という表現がなされていたけれど、そんな感じ。
距離の取り方というのだろうか、亀山先生もドストエフスキーオタクの一人ですよ、へ、へ、へ、という受け止め方。
亀山先生すごいです!という声ばかりだったらこんなに寛容に受け止められなかったと思う。

それはまぁいいとして。
テレビでカラマーゾフの兄弟が流れることのワクワク感、亀山先生の解釈論、伊集院さんの本当にカラマーゾフを読んだことがないのか疑わしい的確な質問と感想(台本というものがあってね)、ロシアドラマ版やソ連版の映像を混じえつつ、津田さんが朗読する時間。 そして最後に亀山先生の考えた続編(イラスト&解説付き)。
楽しくなかったはずがない。
取り上げてくれてありがとうございます。

新年の1冊目はカラマーゾフの兄弟かな。