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ルパン・エチュード考察 クラリスはなぜラウールの特別になったのか

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原作との関係性の概要は上記のブログ記事にまとめているのでこちらでは原作には一切触れずにルパン・エチュードそのものの考察をして行きたい。

第2巻、カリオストロ伯爵夫人編の冒頭で、ラウール・ダンドレジークラリス・デティーグと恋に落ちる。
自分はここで「ん?」と感じた。
ラウールが特定の誰かを愛する…?
ヒトでも猫でも犬でも虎でもなんでも平等に愛するラウールが、誰か1人を特別に愛するだって?

クラリスの「力」って本当にクラリスの能力なのか?
ラウールの安心感とか信頼感とか思い入れとかそういう精神状態が「悪意」をブロックしてるって可能性はないかな

作中でエリクはこう推測する、つまりラウールがクラリスを愛したからこそアルセーヌは表に出られなくなったのではないか、と。
(それに対してアルセーヌは「怖いことを言うね」と返すのだが、それはそうだろう。ラウールがエリクに懐けば懐くほど、親友の前に自分が出られなくなる可能性があるのだから)
しかし自分は逆ではないかと思う。
アルセーヌの意識を落とすほどの力をクラリスが持っているからこそラウールはクラリスを愛したのだ。
これはラウールとクラリスの描写ではなく、アルセーヌとジョジーヌの描写からそう推察した。
ジョジーヌを間近で見たアルセーヌはこう言う、

こんなこと今までなかったんだ
初めてなんだ
すごく新鮮な気持ちだ……!
ラウールの気配をまるで感じない……!
ラウールの裏にいる時みたいな無感覚じゃない
表にいるとき特有のすべてがむき出しなフルボリュームでもない
(中略)
彼女はぼくの「クラリス」だ……!

異常状態から初めての正常状態になったアルセーヌは、ジョジーヌを特別だと感じ、たちまちのうちに愛するようになる。
それと同じことがラウールでも起こったのではないだろうか。
いつごろ人格が分裂したのか定かではないが、アルセーヌが初めて外に出られた年齢(6歳以下)を考えるならば、物心がつく以前から、もしかすると生まれた直後から2つの精神が1つの肉体に宿っていたのかもしれない。
常に裏にいることを強いられていた側は裏でも意識を保っていられるが、常に表にいた側は裏では意識を浮上できない。
暗闇で過ごしたモノは夜目が利くが、そうでないモノには何も見えない。
これがアルセーヌとラウールの非対称性の原因だろう。
次に表に出ている状態を考えてみる。
アルセーヌが表に出ている間ラウールは落ちているのだが、それでもジョジーヌを見た時のアルセーヌは言う、「ラウールの気配をまるで感じない」と。ではラウールは?
ラウールが表にいる場合、ほとんど常にアルセーヌは落ちていない。
それにも関わらずラウールはアルセーヌの気配を感じずに生きていた。いや、本当にそうだろうか。
常に誰かから見られている人間は、無意識のうちに感覚のボリュームを引き下げてしまうのではないだろうか。
つまり、ラウールのあの独特な性格は、”常に誰かから見られているプレッシャーを緩和するため身につけざるを得なかった鈍感さの結果”なのではないだろうか。
そう考えるならば、アルセーヌの意識を遮断するリソースを割かずに済む状態=クラリスがいる状態をラウールが心地いいと感じるのも自然な流れだ。
アルセーヌが歓喜したように、ラウールも歓喜したのだろう。
もしかするとその歓喜はアルセーヌが感じたものよりも大きかったかもしれない。

2022年7月15日追記。

アルセーヌ・ルパンシリーズの傑作「813」の連載バージョンの邦訳が刊行された。
ルパンファンなら読んで損なしの大長編となっている。
紙書籍・電子書籍ともにamazonで取り扱い中である。 
興味のある方は読んでみてほしい。

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813-1910年連載版-中巻 | モーリス・ルブラン |本 | 通販 | Amazon

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菊池寛『入れ札』twitterログ

菊池寛を読んで

2019年も残り2ヶ月となったところで100年前の小説家にハマった。
100年以上前の小説家にハマること自体は自分にとって珍しくもないのだが、日本の小説家にハマることは珍しい。
安部公房以来だから……そうだな、実に10年ぶりになる。
自分はtwitterで紹介された作品を、小説に限らず漫画でも音楽でも映画でもなんでも、心の中の「あとで読む・見る・聴くリスト」にポイポイ放り込む。
何年もリストの中で埋まっている作品もあれば、気分などのタイミングが合ってすぐに引っ張りだされる作品もある。
今年は2つをすぐに引っ張り出した、1つは映画「ローマの休日」、もう1つは菊池寛の長編小説「真珠夫人」。
どちらも面白かったのだが、特に後者「真珠夫人」は尾を引いた。
古典に両足を突っ込んでいる作品だから、という期待値の低さも作用したのだろうが、これが今年の最初にして最大のヒットになってしまった。

ある作品を読んだあと、別の作品も読んでみたいと欲する作家がいる(いわゆる作家読み)。
自分にそういう欲求をもたらした作家は、ドストエフスキー安部公房ジョルジュ・シムノン、ピエール・ルメートルの4人だった。そしてこの度めでたく菊池寛が5人目になった。
菊池寛の作品を読み漁った今、ハマったきっかけとなった「真珠夫人」は個人的菊池寛作品ベスト3にはランクインしないという事態になっているのだが、裏を返せばつまり出会いが最高だった訳でもないにも関わらず、菊池寛に心を刺されてしまったということになる。
桜井和寿は何を歌っても桜井和寿になるように、菊池寛は何を書いても菊池寛、ということなのだろう。

では、自分が読んだ菊池寛作品(エッセイ等含む)を読んだ順に上げていこう。

真珠夫人
恩讐の彼方に
父帰る
無名作家の日記
出世
屋上の狂人
貞操問答
ある恋の話
船医の立場
芥川の事ども
納豆合戦
女強盗
藤十郎の恋
勝負事
志賀直哉氏の作品
極楽
身投げ救助業
吉良上野の立場
易と手相
奉行と人相学
三浦右衛門の最後

仇討禁止令
島原心中
入れ札
蘭学事始

青空文庫kindle版)で読んだせいか、短編がほとんどを占めているせいか、途中、作家本人ないし編集者によって並べられたとおりに読みたいという切なる気持ちが湧いてきて驚いた。

音楽であればプレイリスト全シャッフルをしたこともあるのだが、小説でシャッフル読みはしたことがない。
音楽シャッフルであっても、すでに順番どおりに何度も聴いた上での行為であり、いきなり全シャッフルなどしたことがなかった。
初読の短編群でシャッフル読みをしたおかげで、意図せず短編集の順番の重要性を実感できてしまった。

真珠夫人」から読み始め、「志賀直哉氏の作品」まで読み終わったところで自分の中の菊池寛像はかなり固まっていたのだが、次に読んだ「極楽」「身投げ救助業」のテイストがそれまでに築き上げた菊池寛像とは異なっていたのでかなり戸惑った。

現時点で、「極楽」、「身投げ救助業」、「形」の3作品が自分の中の菊池寛像と離れている。
もちろん、面白くないわけではない。面白さで言ったら他の作品と遜色ないどころか上位に来るのだが、自分が菊池寛に求めるもの、とはズレているというのが正直なところだ。
勝手な話なのだが、申し訳ない。

しかし、読む順番が違っていたらまた感想も違っていたかもしれない可能性に、「島原心中」を読み終わった後に気付いてしまった。
「極楽」の直後に「身投げ救助業」を読んでしまったせいで「極楽」のテイストに「身投げ救助業」の読感も引きずられていたのかもしれない。
では、「島原心中」を読んだ直後に「身投げ救助業」を読んでいたら?
そうであっても「身投げ救助業」が「極楽」系統の話であることは間違いないのだが、少しは“らしくなさ”が薄らいだかもしれない、と思わずにはいられなかった。

「身投げ救助業」、「島原心中」、そして「芥川の事ども」を読む限り、菊池寛は自殺を否定的には捉えていない。
(※もちろんこれは菊池寛という人間の思想、ではなく、菊池寛の書いた文章を読んだ自分がイメージした菊池寛の思想である)
死を望む者を救助する善意のありがた迷惑を描いた「身投げ救助業」、心中相手に手を貸すことを罪とする法に加担する“己”を恥じる「島原心中」、非難ではなくどこか諦めを漂わせている「芥川の事ども」、この3つの中に流れる自殺する者への視線は共通している。
しているのだが、ではなぜ身投げ救助業だけをらしくないと感じてしまうのだろう?

上のツイートにもあるとおり、菊池寛は“恥”を描くのが上手い。
「島原心中」でも「身投げ救助業」でも、正しい行いをしている、という考えがガラリと崩れる瞬間を描写している。
しかし「島原心中」の検事と「身投げ救助業」の老婆とでは決定的に異なる点があるのだ。
己の恥にたじろいだ後、たじろぎながらも折り合いをつける(検事)か、完膚なきまでに打ちのめされる(老婆)か。
「極楽」、「形」もそうなのだが、その瞬間が永遠に続く(もしくはその瞬間がその人物の最期となる)場合、読後感は苦いものとなる。
救いがない。
そういう話を好まないわけではないのだが、繰り返しになってしまうが、菊池寛にそれは求めていない。

菊池寛の登場人物たちの多くは、己の感情に盲目的ではない。
正しかったのか、正当性はあったのか、私情が混じっていないか、等々。
これは自分自身のことになるのだが、自分のこの怒りは正当なのか(逆恨みや嫉妬ではないのか)、愚痴(弱音や不満)が悪口(悦楽)になっていないか、賛意は当てつけではないのか、何/誰を意識してしまっているのか、等々考えているからこそ、そういった描写を好むのだろう。(考えているものの感情に押し流されることも少なくない。反省する。)

藤十郎の恋」と「ある恋の話」では、タイトルに反して恋の話は語られない。
役者が芸事のために恋を演ずる前者と、舞台上の役者に恋するだけで役者その人には全く興味のない後者は、2つでワンセットになっているといってもいい。
藤十郎は己の置かれた苦境から発生した激しい情欲を理性で以って制した上で冷徹に恋情溢れる男を演じ、若かりし祖母は舞台上の役者だけを愛していることに自覚的だ。
彼ら2人もまた、自身の感情に盲目的ではない。
盲目的であったならば、藤十郎は情欲のままに行動し、若かりし祖母は素の役者と舞台の上の役者とのギャップに苦悩し続けただろう。
藤十郎の恋」での藤十郎の凄まじさについては下記の記事で少し触れているので割愛しよう。

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菊池寛の小説はいくつか映像化されている。
しかしそれほど触手が動かない。
ドストエフスキー安部公房ジョルジュ・シムノンもピエール・ルメートルも、そしてモーリス・ルブランも、それぞれ独特の空気感を持っているのだが、彼らの小説の映像化には大なり小なり興味がある。
だが菊池寛作品ではそうならない。
と言いながら観る機会があれば観てしまうのだろうな。

最後に、現時点でのベスト3を上げておこう。※順不同

島原心中
入れ札
無名作家の日記

月9『シャーロック』第7話感想 不満と愛着

よかったところを最初に上げよう。
若宮が画面にワトソンと書いたシーン。
以上。

今回もまた取ってつけたような悪女で辟易する。
3話連続だもんなぁ。
低賃金・重労働の介護職にあって大金への誘惑に負けてしまいましたごめんなさい、じゃ駄目だった?
なんでちょっと気だるげに開き直って「アタシにくれるって言ったのよ」なの?
しかもさ、悪女のイメージさ、このドラマちょっと古くさくない?
む〜ん、次回予告も新たな悪女が登場しそうだしなぁ、げんなりする。

前回も女性描写が不快だったのだが前回はその代わり、誉と若宮の関係性にストレスがなかった。
対等とまではいかないものの、若宮がきちんと動いていたから。
しかし今回は誉と若宮の関係性もストレスだった。
推理力の高い小学生を気に入る誉とそれに嫉妬する若宮の図。
小学生が誉の助手ポジションに立ったことに対する嫉妬なのか、小学生の推理力に対する嫉妬なのかは定かではないが。
小学生を引き立てるために、作中で若宮をコケにする。フォローもない。
前回は対等気味だった2人の立場は再び明確に上下に戻った。
駄目だとは言わない、こういう関係性が好きな人もいるのだろう。
嫉妬しちゃう姿が可愛い、と思う人もいるだろう。
だけど自分は好きではない。
若宮のポジションに江藤がいればそれほど気にならなかっただろう。
なぜなら江藤は諦めているから。
対等になる気もなく、おだてて褒めて推理力を貸してもらえればそれでいい。
そういう付き合いの方が見ていてストレスがない。
あぁ、そういえば今回は江藤があまり絡まなかった、それも関係しているかもな。
若宮が駄目だというんじゃない、むしろ若宮には同情的だよ。

視聴続行の意欲は揺らいでいるのだが、守谷は気になるし、若宮はけっこう愛着が湧いている。
どうしたもんかな…

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原作読みから見たルパン・エチュード

作者の想定よりも長く続いたシリーズには、設定の齟齬が必ずと言っていいほど存在する。
モーリス・ルブランの書き続けたアルセーヌ・ルパンシリーズもまた例外ではない、大きな疑問点から小さなツッコミどころまで揃っている。
しかしここで言う齟齬とは作品と作品の間にのみ生じる矛盾を指すために、ただ読んでいるだけではそれほど(あるいは全く)気にすることもない。
ただ読むだけならば。

問題になるのはモーリス・ルブランのオリジナルを「原作」とした場合である。
ルブランのミスをそのまま再現するか、それとも修正するか、はたまた消去するかの選択が迫られる。
ちなみに原作のミスを修正したものとしては、連続ドラマ『白痴』(2003露/原作ドストエフスキー)における“呼び鈴のくだりにワンシーン(行為ひとつ分)だけ追加した”、が個人的MVPである。スマートかつ自然、原作と付き合わせるまで気付かなかった。ドラマ白痴は「原作の文章をそのまま映像にしているだけですよ」という顔をして映像化のための修正省略再構築を随所で行なっている作品なのだが、前記のミスの修正もその1つだ。

読み手としてはその選択が新しい作品(以下、新版)にとってマイナスにならなければ再現でも修正でも消去でもどれが選ばれようが構わない。
もちろん修正や消去が選択された場合、原作至上主義者として「ここはそのままやって欲しかった」という感想を抱く可能性はあるが、それはそれとして新版という一個の作品の完成度を尊重する気持ちは持っている。
ミスではないが原作要素のピンポイント省略を行なった例としては、ミニドラマ「813」(1980仏)が挙げられる。原作とは異なる結末を迎えることで不要どころか邪魔になる要素、ジュヌヴィエーヴまわりを潔く削ぎ落としている。個人的にミニドラマ版は改変された結末も含めてそれほど好きではないのだが、製作陣の意図は読めるという点においては大好きである。

さて、ルパンシリーズにおける設定の齟齬といえばなんであろうと考えた時、もっともポピュラーなものは「で、結局アルセーヌ・ルパンの本名はラウール・ダンドレジーなの?アルセーヌ・ルパンなの?」ではないだろうか。
この矛盾はどう足掻いても解消されない、というわけではないのだが、解消させるためにはウルトラCを放つ必要がある。
「原作と矛盾しないからって流石に忠実の範囲は超えているだろ」と言われること必須の要素なのだが、つまり最初から「原作に忠実」を掲げなければいい話なのだ。掲げさえしなければウルトラCどころか着地の後にバク転したって問題ない。
そして見事にバク転を取り入れたのが「ルパン・エチュード」だ。
ラウール・ダンドレジー青年の肉体には2つの人格が存在し、そのサブ人格こそがアルセーヌ・ルパンである。
この設定全てがバク転だと思われるかもしれないが、矛盾した箇所同士を付き合わせていくと「2人いる」という結論(といって悪ければアイディア)には辿り着く。バク転は二重人格(2人いるが肉体はひとつ)の部分のみだ。
ルパン・エチュードは原作に添いながら、二重人格、エリク・ヴァトーという2つの新要素を核として物語を展開していく。
原作エピソードとして、第1巻では「アンベール夫人の金庫」、第2〜4巻では「カリオストロ伯爵夫人」を展開、さらにカリオストロのエピソードの最中に挿話として(原作どおりに)「王妃の首飾り」を紹介する。
三竦みの齟齬を来たしている原作の3つのエピソードについて、二重人格という新要素を以って名前に関する矛盾を解きほぐすと同時に、アルセーヌ・ルパンはサブ人格という設定も、キャラクターの新しい面を引き出し、原作ルパンとは異なる深みを引き出している。

さて、パズル的な読み方をするならば、新要素で原作の矛盾を解消したが、このまま何も考えずに進むならば新要素が加わったことで原作と同じストーリー(=アルセーヌ・ルパンの人生)を歩むのは無理である、ではどうやって原作と合流するのか、というところで第4巻は終わっている。
パズルならば「誘拐直後にラウールを殺す」が最適解であり、予想としてもラウールの消滅ないしラウールとアルセーヌの人格統合は上位に来ているのだが(ラウール/アルセーヌの消滅、統合、共存、統合ではなく第3の人格、の5パターンしかない)、作品として読むならば、どうするか、ではなく、どうなるか、が大事だ。読みたいのは過程と傍流である。

正直なところを言えば、カリオストロ伯爵夫人編はかなり駆け足で終わった、と感じざるを得ないのだが、これは事情が事情だけにしょうがないことだろう。
商業作品としてはここで終わる。
しかし続きは出るらしい。
完結であったならば、オリキャラと言ってもいいラウール・ダンドレジー(ヴァトーはヴィクトワールの位置にいるせいか、ヴァトーよりもラウールのほうがオリキャラ要素が強い。ヴィクトワールはおそらく登場しないだろう、それとも登場した上で彼を「ルパン」と呼ぶようになるのだろうか。ヴィクトワールが登場しなければ奇岩城や813が問題だ?いやヴァトーでもイケるだろ、「お前の代わりにあの娘が俺の心を占めてしまったんだ」)の描写の薄さにささやかな不満を表明していたところだが、続くならば上記の駆け足気味だったという感想の他は、特に不満を感じる箇所もない。
「アルセーヌ・ルパンの逮捕」に向け、新たに加えなければならないキャラクターとこなすべきエピソードの目算に頭を働かせつつ、アルセーヌ・ルパンとラウール・ダンドレジーの逮捕に至るまでの5年弱の平穏を祈っておこう。
「全員の末長く続く幸福」はモーリス・ルブランが叩き潰しているのが残念だ。

2022年7月15日追記。

アルセーヌ・ルパンシリーズの傑作「813」の連載バージョンの邦訳が刊行された。
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興味のある方は読んでみてほしい。

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小説の読み方と映像化について

例えば7+5=12を頭の中でどう計算しているかだが、人によって異なるイメージを持っていたりする。
自分は7を「10に3足りない数」として捉えているため、

7+3+(-3+5)=10+2=12

文章に直すなら、"まず10を作るために5から3だけ吸収し、残った2を最後に加える"というイメージで計算している。(教育用語で言うさくらんぼ計算)
しかし人によっては、7を「5+2」と捉えた上で

5+5+2=10+2=12

と計算する人もいるだろうし、7だけではなく5も「10に5足りない数」として捉えた上で、

(10-3)+(10-5)=20-(3+5)=20-8=12

と計算している人だっているだろう、おそらく。
ごくごく単純な7+5=12でさえ、人によって計算方法、たどり着くまでのイメージが異なるのだ、それより遥かに複雑な小説に至っては、人の数だけイメージ方法、読書方法が存在して当たり前だと思う。
しかし他人の読み方に触れる機会はそれほどなく、触れたところでその読み方を自分も習得できる訳でもない。
ただ、「違う」ということを実感するだけなのだが、その違いに触れることはけっこう楽しい。

www.jigowatt121.com

小説を読むときに映像化させるか、については、敢えて映像化させることはないが、ごく稀に頭の中に映像が浮かぶことはある。
登場人物の台詞が誰かの声で再生されるか、に関しては、そんなことは滅多にない。
浮かぶものといえば、身体の一部(目だけ、口だけ、手だけ等々)だったり、感触のようなもの、概念だけ。
「この文章Aは線の太い漫画が合いそうだ」とか「この作品Bはヨーロッパのモノクロ映画の雰囲気がある」と思うことはあっても、実際にそれらで小説がビジュアライズされている訳ではなく、小説Aを読んだときに受ける感覚と線の太い漫画を読んだときに受ける感覚が似ている、作品Bを読んだときに受ける感覚とヨーロッパのモノクロ映画を見たときに受ける感覚が似ている、だからそれらが思い浮かぶ、というわけだ。
映像や音声が自然に再生される人や、映像化や音声化を意識的に行なう人からすれば、何も再生されない読書体験は無味乾燥じゃないのかと思ったり、怠惰だと思うかもしれないが、今のところ自身の読書体験に不満は特に持っていない。
他人の脳みそに入って全く別の読書を体験してみたい気持ちはあるけれど。

ツイート中にある「ベンチでの哄笑を映像で観てみたい」というのは、映像化されるならどう映像化されるのか興味があるという程度のもので、是非とも観たいというものではない。
しかし、このくだりを是非とも映像で見てみたい、と思うことがないわけでもない。
最近であれば菊池寛の『藤十郎の恋』、読み終えた瞬間に「映像化決定!」の文字が浮かんだくらいだ。(※すでに映像化されている)

その刹那である。藤十郎の心にある悪魔的な思付がムラムラと湧いて来た。それは恋ではなかった。それは烈しい慾情ではなかった。それは、恐ろしいほど冷めた理性の思付であった。(中略)
ただ恋に狂うている筈の、彼の瞳ばかりは、刃のように澄みきっていた。(中略)
 恐ろしい魔女が、その魅力の犠牲者を、見詰めるように、藤十郎は泣き俯したお梶を、じっと見詰めていた。彼の唇の辺には、凄まじい程の冷たい表情が浮かんでいた。が、それにも拘らず、声と動作とは、恋に狂うた男に適しい熱情を、持っている。

しかし「映像化決定!」の文字が脳内で踊っても、脳内で映像化を試みたりはしないのが自分という人間である。
朗読劇ならばまだ、「地の文を淡々と読み、台詞を感情的に読んでもらえば、この冷たい理性と演技の感情の対比が表現できるだろうか」などと考えられるのだが、映像となるともうお手上げである。
そしてまた、映像で観たいとは言っても、「藤十郎というキャラクターを観たい」ではなく、「藤十郎の凄みをメディアミックスでも感じたい」のである。
菊池寛の文章から受けたゾクゾクした感覚を、映像でも受け取りたい。この、この感覚をどうやって再現できるのか、手腕を、演出の至高を、観てみたい。
だから、藤十郎というキャラクターそのままである必要はなく、人種性別は変えてもらって構わないし、実写である必要もない。アニメでもいいし漫画でもいい。


映像化スキルは持たない人間だが、好きな小説を完璧に映像に移し変えた作品に出会ったことがある。
小説はドストエフスキーの『白痴』、移し変えた先は2003年に本国ロシアで製作された連続ドラマ(以下、ドラマ版)である。
ドラマ版の素晴らしさは数千文字程度では到底語り切れるものではないので、今回はたった数十秒のシーンでのみ語ろうと思う。

「ということはつまり、立ち上がっておいとますることになりますね」と、公爵は言って、自分の立場が厄介なことになっているにもかかわらず、かえって愉快そうにからからと笑いさえして、立ちあがった。(中略)
 その瞬間の公爵の眼差しはきわめてやさしく、その微笑にも、秘められた不快感など影さえも見られなかったので、将軍は思わず立ちどまって、急にこの客をなんとなくちがった見方でながめた。その見方の変化はほんの一瞬のうちに生まれたのであった。

新潮文庫木村浩

自分はドラマ版のこのシーンを観た後に小説の該当箇所(上記引用箇所)を読み直してみた。
衝撃的だった。
小説を読んで受けた感覚とドラマ版を観て受けた感覚がぴったり一致したからだ。

「ということはつまり、立ち上がっておいとますることになりますね」

この一言に置いて、ドラマの中の公爵は、ドストエフスキーの頭の中から直接生まれたような、正確にいうならば、ドストエフスキーの小説を読んだ自分の頭の中から直接生まれたような完璧さだった。
しかし、もし仮に自分が脳内で映像化をするタイプであったならば、ドラマ版のこのシーンを「完璧だ」と思ったかどうかは少し怪しい。
外見(衣装などを含む)を見るならば、ドラマ版はそれほど小説に忠実ではないからだ。(衣装の忠実さでいえばソ連版が上である)
何を以って「完璧だ」とするかは、その小説をどう読んでいるか、映像化して読んでいるのか、音声だけか、はたまた概念と感覚だけで読んでいるかによって異なるだろう。
受け取る感覚の一致率を重視している自分と、脳内で作り出した映像との一致率を重視している人では、メディアミックス作品に対する評価は異なるだろう。
その齟齬を、興味深い、と思うこともあれば、不可解だ、と感じることもあるのだが、しかしこれはもう別の話題が始まっている。新しいテーマになり得るだろうが、……この記事はこれで終わりである。

月9『シャーロック』第6話感想 視聴を続行するからこそミソジニーは不快だと表明する

はい、書きます。
第2話の感想で、”製作スタッフのメインどころにバディ萌えしている人間がいなさそうな気配を感じる”と書いたのだが、今回も引き続きそれを実感した。
前回までは若宮が変に誉を意識し、変に突っかかっていくことが多かったのだが、今回は若宮が自分自身として動いていた。
バディやコンビの信頼感、連帯感、親愛の情なんてものは折り返しに来てすら兆しも見えず、しかしそれぞれが独立し、いい意味で無関心の関係に落ち着いていた今回は、物足りなさもなければ、イライラもなかった。やはりこの作品の製作陣にバディ萌えしている人間はいなさそうだ。
観ている自分としても若宮にイラつくどころか安心感を覚えていた、収まるポジションにようやく落ち着いた安堵感と共に。

ストーリーの方は最後に守谷壬三=ジェームズ・モリアーティの名前が登場。
誉が面白がるでもなく真面目に敵意(?)を燃やしているのは、ホームズとモリアーティならそりゃね、と思う一方で、ホームズ物を透かして見なければ少々不自然かもしれないな。ん、まぁ、「お約束/省略」の範囲内かもしれんが。

今回の事件について、ミステリとして見れば単純に面白かった、とは思う。
この回だけを見たら不快な描写もなかった。
ただ、残念なことに前回がある。
前回は描写のバランスが悪かったのだ、とは思うのだが根底に女性軽視/母親嫌悪があることは否定しきれない。
前回登場した夫婦は、母親は息子への過干渉、父親は息子への非干渉という組み合わせ、糾弾されたのは母親だけ。
今回登場した夫婦は、どちらも娘に構ってやらない組み合わせではあったのだが、それでも母親は専門家のカウンセリングを受診させ、自らも娘に付き添っていた。(一方父親はカウンセリングすら無駄だと言っていた)
しかし娘が不満を口にするのは母親の方にだった、「自分が話を聞きたくないから専門家に押し付けたのだ」と。
思春期の女の子が父親よりも母親からの愛情を欲することは自然であり、母親への不満を多く口にすることも自然だとは思う。
しかし、母親が過去「ただ告白してきた同年代の少年を、気持ちが悪いというだけでストーカーとして告発した」という事実を追加してしまった意味ってなんなのだ。
本当にストーカー被害に遭っていた、では駄目だったのか? それでも話は成り立つはずだ、むしろそちらの方が成り立つはずだ。
なぜわざわざ、あの母親に性格の悪さをプラスしたんだ?
繰り返しになるが、前回を見ていなければ今回の歪みはスルーできた、たまたまだろう、と。
だけど前回を見てしまっている。
2話連続で見せられてしまうと、この作品、母親に負の側面を付与しがちでは?と思ってしまうのもしょうがない。
しかし、ホモソーシャルを描くためにミソジニーが使われている、とは思わないのが一種の救いだろうか。(何故ならばこの作品、ホモソーシャル/男同士の結び付きは大して描かれていないから)

自分にとってこの歪みはスルーできない程度には大きいのだが、作品全体の面白さ、これからの展開への期待を損ねるほど致命的でもない。
面白さよりも不快さが上回ったら離れるまでだが、今のところシャーロックは、視聴続行対象だ。
心外だが、ミソジニー描写には耐性がついてしまっているんだよな、あぁこんなもんだよね、と。
我慢せずに済む作品(『エレメンタリー』など)にも出会っているからこの呪いは昔よりは解けているはずなのだが、それでも他の要素よりは我慢できてしまう。
我慢できなければ私の世界から1つ面白い作品が失われることになる、それは娯楽を楽しむ自分にとって損失かもしれないが、それ以上に我慢することで自尊心が削られていくことを私は知っている。
だから、不快だと感じたことに蓋はしない。
視聴を続行するからこそ、不快は表明する。

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